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映画鑑賞の絵日記ブログ
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「生きる」(監督:黒澤明・1952年)

<梗概>
[序]
 平々凡々と生きていていまある市役所の市民課長という地位にいる渡邊勘治(俳優:志村喬)が、ある日突然、自分は胃癌であと半年しか生きられないだろうということを知る。ずっと以前に妻を失っている彼は、男手ひとつで育てて大学まで出してやった息子(俳優:金子信雄)にまずその苦悩を打ち明けようとするが、その息子が嫁と親父の退職金をどう使うかというような話をしているのをつい立ち聞きしてバツが悪くなって言えない。市役所に30年間以上皆勤で勤め続けてきて、ようやく漕ぎ着けた市民課長という立派な地位にしても、その仕事内容はただただハンコをミイラのように無感動に押し続ける毎日でしかない。その仕事を律儀にこなすのは今の地位にしがみつき、お金を得るためである。その日々を省みて、無性に後悔の念に襲われ、改めて人生の価値を自分に問い始める。彼は突然、市役所を無断欠勤するようになる。

[破]
 彼は居酒屋で見知らぬ小説家(俳優:伊藤雄之助)と知り合う。小説家は、彼を今まで体験した事のない放蕩・豪遊の仕方を教えるべくメフィストのように夜の歓楽街の案内役を買って出る。彼は貯金の5万円(現在の価値では50万円~75万円)を使い果たしたが、いよいよ空しさが募るばかりである。役所を無断欠勤してまで、生の意味を求めてさまよう日々が続く。そして、ある日、役所の同じ課の若い女性職員(俳優:小田切みき)と出会い、彼女が生き甲斐を求めて役所から玩具工場に転職したことを知った。このとき、彼は彼女を妬ましく思うと共に、自分に足りないものを持っていると思い始める。何度か彼女と会うにつれて、他人の為になる仕事に没入することこそ苦悩を超える道であることを自覚する。さらに、今まで有耶無耶(課から課へたらい回し)にし続けてきた本当に市民のためになる市民課長としてやり遂げるべき仕事があったことを想起した。・・・それから半年後、彼は市民課長として各課(土木課、公園課、衛生課、予防課、道路課、区画整備課、総務課、市民課など)への働きかけと自身の努力で、下水・汚染水の溜まり場となり悪臭を放っていた不衛生な空き地を子供達が遊べる小公園に作り変えた。彼は雪の降る寒い夜に、その完成した小公園のブランコに揺られながらただ一人満足げに死ぬ。

[急]
 その通夜の座上、彼の偉業を自分の手柄にしてしまうかのような市の助役の態度に憤慨した市民課員たちが、彼は果たして自分が癌であることを知っていたのだろうか、と話し合い、そうだったに違いないと結論する。なぜなら彼は、無断欠勤を止めて役所に出てきたある日から突然、異常な熱意をもって貧しい市民たちの要望に応えるこの仕事に打ち込むようになったからである。
「わしは人を憎んでなんかいられない・・・わしにはそんな暇はない」
「ほぉ・・・美しい・・・実に美しい・・・わしは夕焼けになんてこの30年間すっかり・・・ ・・・いやしかし、わしにはもうそんな暇はない」
など彼のふとした言動が課員たちの回想の中で甦る。かつての彼と同じように平々凡々と生きている課員たちは、彼の行動の真意に感動して自分達も彼のようにやろうと誓い合う。また、親父は転職した部下の女子職員と浮気していたのだとばかり誤解していた息子も反省する。しかし、一夜明けると課員たちは、通夜の席の昂奮を忘れたのように再び無気力な日々に戻っていく。

(感想)
 物語の登場人物を、内部と外部にわけると、内部は、主人公である市役所市民課長である渡邊勘治(俳優:志村 喬)。残りは外部と思っていい。彼に運命的な胃癌の告知が医師からなされる。また、病院の待合室では、胃癌が死ぬ病気であることを他の患者から吹き込まれる。胃癌告知は、主人公の今日も明日もきっと変わらないだろうという素朴な考えさえも打ち砕く。問題(運命)を齎した直接の人々は、医師と病院の患者。問題に対する回答のヒントを与えた人物は、俗っぽい遊びを教えたメフィストこと小説家と、おもちゃ工場へ転職した元部下の市民課の若い女性職員、市民課に訪れて生活の不満を訴えていたお母さん方である。問題解決への主人公の努力の障害となった人々は、市役所の他の課の職員である。内部と外部の相克のつらさを客観的に語ったのは、主人公ではなかった・・・語ったのは自分の力ではどうしようもない運命を感知していない、一般的な意味で言うところの客観的・冷静な判断ができる状態にある同じ課の部下であった。
 主人公に対して、問題(運命)を否応無く齎す存在、問題の解決を導く存在、問題・解決を妨げる存在、と・・・それぞれ登場人物の役割が決まっている。主人公が自身に課した役目を果たして死んだ後に、彼の死も誰かしらに影響を及ぼす。その連鎖反応が続いているのだが、『生きる』に関して言えば、主人公だけが臨界点を突破するだけの運命に恵まれ、残りの周囲の人間にはそれに引き続くだけの運命には恵まれなかった(もしかしたら、後々、与えられるのかもしれないが)。決して、その人個人の能力などに還元させてはいけないと感じる。能力が高いから事を成しえたのだ・・・と考えるよりも、能力なんて二の次(結果論)で、その能力を身に付けさせ、大いに行使する状況に至らせた個の経歴・境遇・環境こそ問題にするべきである。実際、その方が説得力があるだろうし、私の人間観とも馴染む。当然ながら、生来の人間の個性というのも強く反映されることも無視はできないが、我々が個性と呼ぶものは私たちが直接的に評価したがる特定の能力(例えば、数学が得意とか、絵が得意とか・・・)とは程遠いものである・・・そういう如何にも評価しやすい能力はあまりにも人工的で、相当醸成された文化基盤に裏打ちされる洗練された訓練が必要である・・・一体今私達一人一人が我が物顔で自負する"高度な能力"を顕現するために、人類はこれまでにどれほどの"屍の山"を要請されたのか考えてみるだけで、自分に出来ることを自分に還元させるのは間違っていると思える。生来の個性とは、楽観的だとか、悲観的だとか、短気だとか、優柔不断だとか、几帳面だとか、活発だとか・・・そういった善悪二元論的に割り切ることが不可能な曖昧な特性である。生まれもっての"勇敢さ"があったとしても、使い方しだいで人を幸福にもできれば、人を不幸にもできる。生まれもっての"臆病さ"が人を救うことだってある。
 神妙な表現になるのだが、『生きる』の主人公は、確かに世間で言うところの不幸ではあったに違いないのだろうが、今日と明日では全く違う世界になっていると想えるその心境は"運命の女神"に至極愛された人間だけが抱ける着想なんだと私なんかは思う。覚醒(臨界状態)へと促す不吉な接吻。
 人間が生を全うする上では、無慈悲な運命を授かり錯乱する中、なんとか生き甲斐(使命・天啓)を感じ取り完全燃焼のなか果てるのか、それとも、明日も今日と変わらず同じ毎日がやってくることを信じて疑わず安心し、誰を感化喫驚させるわけでもない無感動な"墓上の踊り"に気をやつしながら少しずつ疲れ果てるのと、一体いずれが本当に幸福なのか知れたものではない。
 登場人物に対して、その役割を考えようと思う。役目があるはずだ。もちろん、彼ら自身は単に自分のやり方で、時には手前勝手に図々しく生きているだけに過ぎないだろうし、良くも悪くも他者に自分がどういう影響・作用を与えているのか・・・なんていう着想を維持できる人間は珍しい方だろう。自分で一からこういう話を捻出するのは骨が折れるが、他人が作った物語の登場人物の役割を分解するのであれば、さほど苦労も無くできそうだ。

登場人物を内部・中部・外部に分けるその指標は何か言えば、『敵意』『慈悲』『共感力』『境遇差』などの言葉で表現されると思う。

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